タジン、天蓋の空

このところ、タジンを使うお料理に凝っている。
タジンは、モロッコで使われる一種の土鍋だ。
同時に、モロッコでは、タジンと言うと、料理そのものも意味するとのこと。
こういった知識は、口尾麻美さんという方の書かれた、タジンの料理本から知ったことだ。

タジンは基本的に、フライパンくらいの深さの陶製の鍋部分に、同じ陶製の大きな三角帽子のような蓋が付いている。
その三角帽子の中を、素材から出た水蒸気が循環するので、少ない水で料理が出来るのだ。
だから、じんわりと加熱され、素材は柔らかく、味も壊されない。
チキンもポークもタコも魚も、こんなに美味しかったのか! と驚く。
和風でも洋風でも、韓国風でも、どんな味付けにしてもオーケーだ。
でも、モロッコ風にするのだったら、ジンジャーパウダー、コリアンダー、クミン、パプリカパウダーをたっぷり入れる。
それと塩、少々。
そうして、レモンを絞れば出来上がり。
そうだ、アラブの女性を描いたマチスの絵にも、お皿にたくさんのレモンが盛られていたっけ。
何度か作るうちに、自分の料理の腕がこんなに良かったのか、とびっくりするようになる。
でも、それは、タジン鍋のせいなのだ。

いつしか私は、広い砂漠に腰を下ろし、わずかな薪を大切に燃やし、その日、手に入った素材を入れて、三角帽子の鍋が炊き上がるのをじっと待っている。
広い空が360度、私に覆い被さっている。
夕刻が近づいて、その空はだんだん茜色に変わっていく。
ああ、天蓋の空。
ポール・ボウルズシェルタリング・スカイ
タジンの蓋の中にいる私。

四方田犬彦の「モロッコ流謫」にも
『停車場の前には簡単な食堂があって、店先には円錐形をした陶器が炭火の上にいくつも並べられている。タジンの香ばしい香りがする。鍋を意味するこの料理は、羊肉にアーモンドや豆を混ぜた、スパイシーなシチュウだ。』
とある。
その後、この文章に続く部分には、三島由紀夫の弟で、モロッコ大使であった平岡千之(ちゆき)氏との交遊について書かれていた。
その人のことを、『言葉の端々に、もはやこの人物が現世というものをどこかで投げてしまっているのではないだろうか、というニヒリズムが隠されている』ような人だと、四方田犬彦は書いている。
どんなに複雑な人生だったことだろう。
兄と弟、光と影。
去る者と残される者。

遠い所のことを、私は料理をしながら、想像してみる。
まぁ、その程度が、今の所の私の放浪だ。