『ファミリー・ツリー』 名画座で映画を観る

異常な暑さの長い長い夏が終わったようだ。
ペットロスもあって引きこもりめいた二ヶ月だった。
ようやく、ちょっと動く気分になって映画を観に行った。
映画好きなのに、『ギンレイ』を知らないなんて、もぐりですよ、と人に言われたのがきっかけ。
その、名画座に行ってみた。

今日、上映されていたのはジョージ・クルーニー主演の『ファミリー・ツリー』だった。
アレクサンダー・ペイン監督。

観終わった後は、短編小説の秀作を読んだような、満たされた気持ちになった。
妻が事故で植物状態になった男の家族の物語。
仕事にかまけている間に、娘たちとは距離が出来ていて、妻は自分の世界をもって、どうやら浮気をしていたということが判明。

印象が深かったのが、舞台がハワイで、流れる音楽はハワイのもの。
いかにも楽園のような音楽なのだが、実生活をハワイで送るとなると、なんだか倦怠と退廃にむしばまれてしまうのではないだろうか、と思わせられる何かがある。
われわれが観光客として描いているハワイのイメージとはずいぶん違うものがあるのかもしれない。

そして、現代の家庭生活には、若者たちの反抗や麻薬などがあって、親はどうしてよいか分らない。
家族というものの賞味期限は、どんどん短くならざるを得ない。
それを、どうしたらよいのだろう? と考えさせる。
何も語らず、病室に横たわる植物状態の妻は、何を考え、何を悩んだのだろうか? と思わず考えさせられるのだ。
何も語ることが出来ない、ということは、かえって雄弁かもしれない。
それぞれが、自分の言い分ばかり語り、浅はかなレベルで絡まり合っているのだ。

どうしようもないアホに見える長女のボーイフレンドが
「僕たちは、自分たちの話はしないよ。それ以外の面白いことなんかを喋って、気持ちを紛らせているんだ」
というセリフが印象的だった。
最後にハワイの海に妻の遺骨を撒くシーンは、人間はこうやって儚く消えて行く存在なのだからこそ、すべてを肯定して生きて行く、それでいいんだ、と教えてくれる。

われわれの、物質的に豊かで軽薄な日々の中を、どうにか手探りで生きて行こう、という前向きな気持ちにさせてくれる映画でした。

コマちゃん死す

わが狛犬が、20時間程前に死んでしまいました。
僧房弁不全で心臓がそうとう肥大していたためでした。
全力疾走しているような激しい呼吸で一日を過ごし、夜中の1時半にとうとう息が途切れました。
最後の一息は、私に向かって、口を開けて、ちょっと怖い顔をしたので、なにか怒っているのかな、と思ったのですが、それは、苦しい最後の一息だったのでした。

最後の一日だけ、オシッコが間に合わずに、その上で倒れたりして、ああっ、粗相をしてしまった、という顔をして、テーブルの下に隠れたりしようとして、健気でした。
うまく歩けなくなったのです。

生と死の間は、ほんの1ミリか2ミリの隙間しかないように、私には感じられました。
そんなに、わずかの隙間なのに、戻る事が不可能なのです。
温かかったからだは、すぐに冷たく、硬くなりました。

ペットロスは、きわめて私的な事柄だということは、よくわかっているのですが、イヌという(あるいは他の種類でも)動物は、心の純度がヒトよりもずっと高いので、喪失感は耐え難いものがあるのですね。

そして、コマちゃんとともに過ごした時間(7年間)というものが、自分自身から、血が出るように、メリメリと引きはがされる痛みはキツイ。

どうにか工夫して、軟着陸したいものです。

バーバラ・ピム『秋の四重奏』を読む

このところ、暑さにやられて体調不良になって、グダグタした毎日を送っている。
そのおかげで、本をたくさん読めたのはよかった。

みすず書房の、バーバラ・ピム著『秋の四重奏』。
これは友人が読んでみたら、と貸してくれた小説。
自分で買った本でない、特に小説を読み始めるとき、私はちょっとした不安と恐怖を味わう。
でも、この小説は、そんな懸念は無用で、そうめんを食べるようにスルスルと読めた。
ユーモアと軽さ、そしてジンわりとした心地好さがある。

物語は、女性2人、男性2人が主人公、四人の視点がバランスよく配置されている。
四人は、ロンドンにある自動車会社の中の一部署に長いこと勤めていて、いよいよ60歳の定年が近づいている。
仕事は、なにやら、資料かなんかをファイルする閑職で、コンピュータの時代が近づいているので、4人がいなくなったら、もうその部署はなくなるらしい。

四人は、お互い、立ち入らず、深く付き合うこともない日々を送っている。
それぞれ、ちょっとしたクセものでもあるし。
でも、それとなくは、お互いの人生をちらちらと観察し、心配したりしている。
際立ったことも起こらない、さりげない、毎日が流れるが、それでも、小さな、さざ波のような生活上の事件はある。
自分の乳癌の手術をしてくれた医師に、感情転移的な憧れを抱いてしまうなんていう、あんがい共感出来る事などが描かれている。
「下宿屋」という生活形態の面白さ。
イギリス国教会カトリックに関する部分は、もしかすると重要な意味があるのかもしれないけれど、私にはちょっと消化し難かったのは残念。

四人の現状は皆、独身であって、それぞれが孤独。
そこそこのリタイア後の生活は送れる程度の経済的安定はある。
現代から見ると、60歳をかなり老人として扱っているのに、時代の違いを感じなくもなかったが、夕暮れ時の心地好さのようなものも読み取れた。
こういうセンスに、私はイギリス的なもの、ロンドン的なものを、強く感じて、いいなぁ、と思った。
幸せ、ってなんだろう、という読後感が残った。

バーバラ・ピムは現代のオースティンと呼ばれた作家らしいが、しばらくの間、忘れられて埋もれた作家になっていたようだ。
とりたてて、ダイナミックなことのない日常を描くのは難しいことなのに、この作家はなかなかの腕前だと思った。

103歳のヴァイオリン教師の死、そして「神童」 渡辺茂夫

ヴァイオリン教師、渡辺季彦氏が103歳で亡くなった、というニュースを数日前に耳にして、ずしんとした重たい悲しみを覚えた。

渡辺茂夫という、少年天才ヴァイオリニストを作り上げたのが、渡辺季彦氏なのだった。
季彦氏は、茂夫の養父(叔父だったが茂夫の両親が離婚したため養子として引き取った)。
茂夫は四歳半から父季彦氏のヴァイオリンの指導を受け、14歳のとき、来日したハイフィエッツに絶賛されて、彼の推薦でジュリアード音楽院に無試験で留学した。
世界一の演奏家になると多くの指揮者、演奏家たちに評されたが、ジュリアードの主任教授が彼の演奏法を変えようとしたせいか、茂夫は精神不安定になる。
(茂夫はこの頃、急に日本嫌いになったという。あるいは、英語が解るようになったのが、悲劇の始まりなのかもしれない、とも想像する)
茂夫は精神科の治療を受けたものの、16歳の時、薬を大量に飲んで自殺未遂をする。
命は取り留めたものの、二度とヴァイオリンを演奏できない姿となって茂夫は日本に戻った。
寝たきりに近い茂夫が58歳で亡くなるまで、介護を続けたのが季彦氏だったのだ。
その後、季彦氏は103歳という、天寿ともいえる歳まで生き続けていた、ということだ。

自分が丹精込めて作り上げた、芸術品といえる天才演奏家を、結果的に壊してしまったのは自分なのではないか、という思いを抱きながら、その父は老齢になっても介護を続け、自分ばかりが、その後、長く生き残る結果となったのではないか。
そんな想像に、私は苦しめられる。

寝たきりの息子の身体を拭きながら、口に食べ物を運びながら、
たとえCDをかけなくとも、
父の耳には、常に『神童』茂夫君のかつての演奏が聴こえていたのではないだろうか。

渡辺茂夫君の演奏は、本当に純度が高く、清冽だ。
人生の汚れ、というものがまだ侵入していない音楽だ。
魂まで届くと、聴くたびに感じる。
父は、悔恨の念、というものをずっと、ずっと、103歳という年齢になるまで、背負わされていたのではないか。
でも、茂夫君の演奏は、それらすべてを、赦しという、やわらかい絹の布のようなもので包み込んでいるように聴こえる。

無気力な酒屋

画家の友人の家に、仲間で連れ立って絵の出来具合をチェックしに行くことになった。
絵の進行を促進するためには、画家にアルコールエネルギーを注入する必要に迫られていた。

手土産代わりに、画家が希望したのは菊正宗の瓶入り、つまり一升瓶だ。
くれぐれも、箱入り、つまり紙パック入り、ではないように、との注意があった。
重いものだし、画家の家の近所の酒屋で買えばよい、と仲間で話し合った。
五月で、夏のような気温だから、ついでに、ビールも買って来てくれ、と画家は言う。

アトリエのすぐ近くに酒屋があるから、との言葉で探したが、そこには、酒屋という看板もなく、店には酒関係のポスターの一枚もなく、物置のような、なんだか怠惰な空気が漂っていた。
声を掛けると、店の奥から四十代の眠たそうな顔をした男が、何の用だ、いう感じで現れた。
「あの‥‥」
躊躇いがちに口を切る。
「菊正宗。一番安いのでいいんですが、菊正宗、頂きたいんです。一升瓶で」
 そう言うと、
「ああ」
 と、眠そうな男は、口を開きもせずに返事をした。
「あそこの、画家の家に持って行くんですよ」
 酒屋から見える画家の家の屋根を指差しながら、聞かれもしないのに、言い訳のように言った。
「画家? ああ、もしかして、あの家の、相撲取りみたいな人ね。そういえば、絵、描いているとかって、聞いたかな」
 酒屋の主人が、ちょっと言葉の数を増やして言った。
「たしか、あそこ、普段は菊正宗なんか、飲んでないよなぁ」
 独り言のように主人は言う。
 ええっ、と内心、かすかに動揺したが、もう仕方がない。
「それから、ビールもお願いします、そうですね、6本」
 お土産だから、切りのよい本数にした方がいいだろうと、ちょっと無理をする。
「ビールですか? あそこ、ビールなんて、飲んでたかなぁ?」
 また、酒屋の主人が首を傾げて言った。
「あ、そうそう、ビールじゃなかった、発泡酒でお願いします」
 あわてて、訂正し、ホッと胸を撫で下ろす。
「ちょっと、待ってて」
 そう言うと、酒屋の主人は店の奥に消え、サンダルを脱いで、さらにその向こうの部屋に消えた。
 いったい、どうしたんだろう、電話でもかかったのかな? と思っていたら、主人が発泡酒を3缶持って戻って来た。
「悪いね、冷えたの、3本しかないんですよ。俺の晩酌用だけどさ。あとは、冷えてないのでいいですかね?」
 と言う。
 これには圧倒されて、言葉が出なかった。
 見まわすと、たしかに、店の中には、酒屋には必需品である陳列用冷蔵庫が無いのだった。

ま、しかし、品物は揃ったので、画家宅に行き、持参品を渡しながらこの出来事を報告すると、
「あの、酒屋のヤツ! バカにしてるじゃないか!」
 と怒って、画家は玄関でシコを踏んだのであった。

DENON DAD-1500SE のCDプレイヤーでニコレッタ・セーケを聴く

20年近く使ったSONYのCDプレイヤーがとうとう壊れたので、人の薦めもあってDENON DAD-1500SE のCDプレイヤーを買った。
それを、トライオードのTRV34SEの真空管プリメインアンプにつないだ。
ちょっと自慢の真空管アンプ
最初にトレイに載せたCDは、ニコレッタ・セーケというハンガリー人の女性ジャズ・ヴォーカリストの『Inner Blaze』。
銀座山野楽器の棚で、ギリシャ彫刻のような顔立ちのジャケットが眼をひいたのだった。
帯がないので輸入盤かなと思ったら、澤田工房というマイナーなジャズ・レーベルが制作している。
ALRジョーダンの小型スピーカから流れ出る彼女の歌声が、ピアノ・トリオをバックに温かく凛としたフレーズを紡いでゆく。
すぐ近くに彼女が居て、私だけのために歌ってくれているような気分になる。
リアルなのだ。
端正で素直な歌声に、リラックスした夜が深まって行く。